今年のカンヌ映画祭で脚本賞と男優賞を獲得した作品です。監督が「少年は残酷な弓を射る」のリン・ラムジー(Lynne Ramsay)、主演男優が「ザ・マスター」「エヴァの告白」「her/世界でひとつの彼女」「インヒアレント・ヴァイス」のホアキン・フェニックス(Joaquin Phoenix)ですから、映画好きならカンヌの受賞に関係なく見逃せない1本でしょう。
最初に感想を書いてしまうと、個人的には素晴らしい作品だと思いました。ただ、これはジョナサン・エイムズ(Jonathan Ames)の原作を読んでいるという前提でのお話です。
原作を知らないと主人公の過去がよくわかりませんので、よほど映画に対する感覚が鋭い方でないと、細切れの映像でフラッシュバックする主人公の心象風景や、繰り返し出てくる数をカウントする声の意味などがピンとこないでしょう。そういう意味で観客を選ぶ映画だと思います。
粗筋をひと言でいうと、フリーランスで闇の仕事をしている海兵隊あがりの元FBI捜査官が、誘拐されて売春宿で働かせられていた少女を救う物語。この少女の父親が政治家であることから、その背景にある権力闘争をにおわせながら展開していくサスペンスです。
ただそれだけなのですが、そんな単純な話をリン・ラムジー監督がホアキン・フェニックス主演で撮るわけありません。ポイントは主人公が抱える心の闇にあります。
「ザ・マスター」では第二次大戦のトラウマにとらわれて新興宗教に逃げ込んだフレディを演じたホアキン・フェニックスですが、本作では第一次湾岸戦争によるPTSDと、幼少期の父親からのDVによるPTSDを抱えたジョーを演じます。さらに複雑なのがジョーの父親も朝鮮戦争で心が壊れてしまった人で、それが原因で家族に暴力を振るうようになったということ。父子二代が戦争によるPTSDという米国ならではの家族なのです。
第一次湾岸戦争というのはクウェートに侵攻したイラクを多国籍軍が攻撃したものですが、ご存知のようにこの戦争には米国を中心とする西側諸国のさまざまなウソがありました。その際、ジョーはサウジアラビアのカフジで戦い、地上戦を経験した者ならではの悲惨な状況を目にすることになります。
海兵隊をやめた後、ジョーはFBIの性的人身売買対策本部で覆面調査官の職を得ますが、そこでも悲惨な状況を目の当たりにすることになります。食肉用冷蔵トラックに積まれた30人の中国人少女の遺体。少女たちを移送していたマフィアが、FBIの捜査が迫っていることを知り、荷室に排気ガスを送り込んで口封じを図ったのです。かろうじて持ち堪えていたジョーの心がこれで壊れてしまいます。
少年の頃、父親の暴力から逃れるためクローゼットに隠れると、怒りの矛先が母親に向かいました。クローゼットから出れば自分が殴られますので、黙って母親の悲鳴を聞き続けるしかありません。卑怯な自分に対する怒りが、身体を鍛えることに繋がり、海兵隊やFBIでの仕事に繋がっていきます。そして目にするのが暴力に怯え、傷つく人たち。最終的に行き着いた先が自らを無にするという空想で、止め処も無い自殺願望にとらわれながら闇の仕事を請け続けることになります。
映画の幕開けにある、ビニール袋を被って自殺を試みているジョーは、何度も死のうとしながら、かろうじて生き延びているという状況を示しています。
老いた母親と2人暮らしのジョー。闇の仕事である以上、自宅の場所を知られるわけにはいきませんので、雑貨屋の店主エンジェルにカネを渡し、仕事の発注者であるマクリアリーからの連絡を取り次いでもらっています。ある日、自宅の裏口のドアから入ろうとすると、近くの家のベランダにエンジェルの息子モイセスがいることに気付きます。友だちの家に遊びに行ったモイセスが、隠れて煙草を吸おうとしたら、偶然、ジョーの自宅を見つけてしまったというわけです。
知らないことは、どんなに脅されても話せませんが、知ってしまった以上、ジョーを狙う人間がエンジェルに行き着いた途端、ジョーのみならず彼らも危険に晒されます。その後、マクリアリーの事務所に行った際、連絡先をエンジェルから変えるつもりだと伝えるのですが、そのときデスク上のローロデックスを破らせれば良かったとその先で後悔することになります。
今回の仕事はヴォット議員の娘ニーナの奪還。行方知らずだったのが議員のもとに脅迫が届いて居所の当たりが付いたのです。
もちろん偽の情報かも知れませんので、ジョーはプロフェッショナルらしく入念な準備をして売春宿を急襲します。ちなみに原作では、指紋を残さないように何かにつけて手術用手袋をしますが、映画では生々しさを出すためか素手のままです。ハンマーを武器にするのは原作通りです。
その一室で客の相手をさせられていたニーナを見つけるわけですが、彼女はその行為から気を逸らすため数をカウントし続けています。この苦しみもいつか終わる、この瞬間を耐えれば何とかなるという自己暗示です。そしてこれが、少年時代のジョーがクローゼットに隠れていたときの意識を呼び戻します。
ニーナの救出は成功しますが、議員のいるホテルに連れ帰るなり思わぬ状況に出くわします。議員の立場や状況は原作と大きく異なりますが、ニーナを奪われ、ジョーが狙われるという流れは同じで、最終的に原作にはなかった結末に到達します。
ほとんどがホアキン・フェニックスの渾身の演技で埋められ、そこにニーナを演じたエカテリーナ・サムソノフ(Ekaterina Samsonov)が絡んでくるという作品です。彼女は「ワンダーストラック」にも出ていたそうですが、それと異なり本作では特にエンディングで強い印象を残しましたので、今後に期待というところでしょう。
邦題は彼女がエンディングで呟く言葉からとられています。とはいえ、やはりジョーが主人公の映画ですから、原題の“You Were Never Really Here”の方が彼の虚無感を端的に表していて、観客に親切な題名だと思いました。
公式サイト
ビューティフル・デイ(You Were Never Really Here)
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