楽しみにしてたパク・チャヌク(박 찬욱)の新作です。復讐三部作で衝撃を受けて以来、この監督の映画は必ず観に行っていますが、以前このブログで絶賛した「イノセント・ガーデン」や「お嬢さん」とはまたひと味違う、新たな刺激を与えてくれました。
物語の枠組みは、夫が不審死した未亡人と彼女に疑念を抱いた刑事が繰り広げるサスペンスですが、もちろんそれだけではありません。謎の多い未亡人を監視しているうちに、真相究明への情熱が彼女その人への関心へと変容し、そこから逃れられなくなってしまう刑事の苦悶を描いていくものです。
映画の始まりはある男性の滑落死。ロケ地は釜山市にある金井山(금정산)だそうですが、切り立った岩の頂上付近から、登山者が誤って転落したと思われる事件で、特に不自然なものではありません。しかし、その妻の身体に何ヶ所もの痣があったこと、彼女の腹部に夫の名前が入れ墨されていたことから、主人公の刑事チャン・ヘジュンは、妻が夫からの暴力に耐えかね、事故に見せかけて殺したのではないかと疑います。

その妻ソン・ソレは中国からの不法移民で、一緒に国境を越えた仲間たちは送還されてしまいましたが、彼女の母方の祖父が朝鮮半島の独立運動家だったことから入国を許されたようです。亡くなった夫は出入国管理の担当官ですので、彼女の入国に際して便宜を図り、恩を着せて結婚した可能性も大。つまり、彼女の夫は力関係を使って美しい妻を獲得し、暴力で支配し続けていたと考えられるのです。

ヘジュンは史上最年少で警視に昇格したエリートですから、次々と事件が降りかかってきます。事故死として処理された事件に係わり続けるわけにはいきません。部下スワンと共に別件にもかかわっているのですが、ソン・ソレへの関心は高まるばかり。高級なシマ寿司(시마스시)の出前をとって彼女の尋問を続け、スワンから経費で落ちないと非難されたりします。

ソレの出身地である中国に問い合わせ、彼女の過去を調べた結果、母親をフェンタニルで安楽死させた疑いがあることがわかります。中国で看護師をしていたソレは、その経験を活かして韓国では介護士として働いています。

殺人は禁煙と同じで難しいのは最初だけだ、というのがヘジュンとスワンの考えです。しかし彼女にはアリバイがあって、夫が滑落した日も勤務日で、訪問先で介護事務所からの連絡を受けたことが確認されています。ただ、訪問先の老女は弱い認知症を患っていて、証言の信憑性は今ひとつです。
この老女は“アンゲ(안개 霧)”という古くさいムード歌謡がお気に入り。ソレに設定してもらったiPhoneでSiriに命じて聴いているのですが、実はこの”アンゲ”の歌詞である、霧でぼやけて相手がよく見えない、真実が見えないという状況がこの映画の着想元になっているそうです。ストーリー的には、ヘジュンがiPhoneを見て事件の真相に気付くのですが、そこで終わりではありません。

釜山勤務のヘジュンと、イポの原発で働く妻は、しばらくの間、ヘジュンが休日に妻のもとを訪ねるという別居生活でした。滑落事件から約1年後、ヘジュンは妻と暮らすためイポに転勤し、そこから映画の後半に入っていきます。

ある日、ヘジュンと妻が魚市場を歩いていると、偶然、ソレと再婚相手のリム・ホシンに出くわします。ホシンは投資家と称し、裕福そうですが、出資者から恨みを買うなどトラブルを抱えているようです。

その翌日、ホシンが自宅のプールで死んでいるのが発見されます。ヘジュンが事件を担当することになり、ソレが犯人に違いないと直感するのですが、すぐに中国移民のサ・チョルソンが殺したことがわかります。以前からチョルソンは、母親がホシンからカネをだまし取られたと恨みを抱いており、入院していた母親が死んだことを機に復讐したとのこと。またしてもソレの容疑が晴れたわけですが、彼女が事件に関わっていると確信しているヘジュンは、再び深入りしていくことになります。

このような感じでサスペンスドラマが展開していくのですが、この監督には珍しく、エロティックな場面もグロテスクな映像もありません。互いに惹かれあう刑事と容疑者の心の動きを抑制された描写でみせていく、静かでロマンティックな作品です。
二人の関係がもどかしいのは、互いに対立する立場である上に、ソレが中国人で、韓国語がうまく話せないという設定だからということもあります。たとえばソレがヘジュンの心臓が欲しいと言ったのは、心が欲しいと言うつもりだったと後でわかるシーンがありますが、これに限らず言葉のズレが理解を妨げ、同時に彼女のミステリアスな魅力を増幅させているように思います。

ソレは日常的に韓国語を話しますが、複雑な話になると、スマホの翻訳システムを使って間接的に伝えます。この切り替えが二人の距離感を調整する機能を果たし、発せられた言葉に微妙な余韻を残します。この物理的距離と心理的距離の錯綜、“あなたの愛が終わったとき私の愛が始まった”という名セリフで表現される意識のズレが物語に緊張感を与えます。

生真面目で誠実な刑事ヘジュンを演じたパク・ヘイル(박해일)は、ポン・ジュノ監督の作品で広く知られるようになった俳優だそうです。微かに色気を感じさせる端正な顔立ちが、自制心が強く、神経質な役柄にぴったりでした。

そのファムファタル、ソレを演じたのは「ラスト、コーション」「ロングデイズ・ジャーニー」のタン・ウェイ(汤唯)。ときおり妖艶な視線を投げかけながら物語を引っ張っていきます。不眠に悩むヘジュンを寝かしつける場面、リップクリームを塗る場面など、直截な表現なしでパク・チャヌクらしいエロスを醸し出せているのは彼女の雰囲気に負うところが大きいと思います。

山の死で始まった映画は、序盤の取り調べシーンに出てくる孔子の言葉“智者樂水 仁者樂山(知者は水を楽しみ仁者は山を楽しむ)”が伏線となるかのように、海が好きな二人による浜辺のシーンで終わります。これに限らず、画面の切り替えからスマホの使い方、着る服の色から部屋の壁紙にいたるまで細部に仕掛けがある作品ですので、繰り返し観ればまた新たな発見があるでしょう。期待を裏切らない監督です。
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別れる決心
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