これまでドキュメンタリー作品を撮ってきたというセネガル系フランス人監督アリス・ディオップ(Alice Diop)が初めて手がけた長編劇映画だそうです。ヴェネツィア映画祭でプレミア上映され、銀獅子賞(審査員グランプリ)と新人監督賞を受賞しました。
法廷劇が軸になるフィクションですが、実際の事件に触発され、その裁判を傍聴して脚本を創り上げたそうで、全編を通してドキュメンタリー作品のような緊迫感が漂います。被告と裁判官のやりとりの一部は裁判記録からそのままセリフに引用しているそうです。
実際の事件というのは、セネガル出身の39歳の女性ファビエンヌ・カブー(Fabienne Kabou)が自らの1歳3か月の娘を殺害したというもの。ダカールの裕福な家庭に育った彼女は、パリに留学し、年上の男性と関係をもって2011年8月に女の子を出産します。
2013年11月、その娘をベルクシュルメール(Berck-sur-Mer)のビーチに置き去りにし、地元の漁師が子どもの水死体を発見して犯行が発覚します。監視カメラの映像で犯人が特定され、すぐ逮捕に至るのですが、裁判の供述で呪術に触れるなど社会を困惑させた事件だったようです。
この映画は、事件そのままの設定で起訴されたセネガル出身の女性の裁判を、同じセネガル出身の女性作家が傍聴するという形で展開します。作家のラマはこの事件に絡めてギリシア悲劇「メディア」のような小説を書こうと構想していますが、 妊娠4か月という身体的にも精神的にも不安定な時期にあり、被告に感情移入して心が乱されます。
ラマは大学で教職に就いており、アフリカ系とはいえフランスの階級社会では高い位置にいます。留学生という身分の被告と比べ、恵まれた地位にあるとはいえ、白人の夫やセネガル移民である母親との関係、アフリカ系に対する世間の偏見などは共通していて、被告が経験した愛と裏切り、憤怒と絶望は決して他人事ではないのです。

被告ロランス・コリーは裁判の冒頭で犯行動機を問われ、それをこの裁判で明らかにしていきたい、と答えます。まるで他人事のようで、普通に考えればリアリティ重視の映画にそぐわないセリフですが、演じるガスラジー・マランダ(Guslagie Malanda)の強い目線のおかげで、端的に被告の心の有り様を表す言葉になります。
つまりロランスの立ち位置は、娘は社会に殺されたということ。セネガルにいる家族からの期待、パリでの引受人である伯母の前でインテリの姪として振る舞う欺瞞、自分が学びたいことと父の願望との乖離、父の願望に背いたことによる経済的苦境、恋人であり産まれた娘の父親である白人中年男性との関係、アフリカ系移民に対する差別、女性なら母性があって当然という幻想など、彼女にかかる社会的重圧は数多あり、その結果としての娘の死があると言いたいのでしょう。
裁判を傍聴しているラマにも、子どもを持つことに対する不安があり、その根底には自らが自分の母親のようになってしまうのではないかという怯えがあります。世代間の価値観の違いによる衝突は、これから産まれてくる子どもと自分の間にも生じるでしょう。移民であるということは、より社会動静の影響を受けやすいのです。
裁判の過程で彼女を取り巻く状況が顕わになります。得に顕著なのは被告の恋人と検察官で、共に白人男性であることが象徴的です。恋人である中年男性は、二人は愛し合っていたと強弁しますが、証言の端々に自己正当化のウソが透けて見えます。検察官の論告にはアフリカ系女性に対する偏見と侮蔑が見え隠れします。
ディオップ監督はこういったレイシズムやミソジニーを直接俎上に上げるのではなく、無意識に滲み出てるものとして、映画のさまざまな場面に散りばめます。ラマを演じたカイジ・カガメ(Kayije Kagame)は監督の分身でもあるわけですが、そういった差別を一つ一つ見届けて苦悩することで映画と観客の橋渡しをしているのでしょう。
この張り詰めた空気感を映像に落とし込んだ撮影監督は「燃ゆる女の肖像」「秘密の森の、その向こう」「スペンサー」のクレア・マトン(Claire Mathon)。冗長ともいえるこの映画を最後まで緊張感を保ったまま引っ張っていきます。
言葉による説明が少なく、難解な作品ですが、オーレリア・プティ(Aurélia Petit)演じる弁護士による終盤の弁論がこの映画の総括だと思います。エンディングで流れるニーナ・シモンのLittle Girl Blueと併せて最後をきれいに締めくくってくれます。
公式サイト
サントメール ある被告(Saint Omer)
[仕入れ担当」