フランスの女性作家シドニー=ガブリエル・コレット(Sidonie-Gabrielle Colette)の伝記映画です。監督は英国出身のウォッシュ・ウェストモアランド(Wash Westmoreland) で、前作「アリスのままで」を共同で監督し、本作の原案を書いた20年来のパートナー、リチャード・グラツァー(Richard Glatzer)が2015年に亡くなり、その遺志を継ぐかたちで映画化したとのこと。ウェストモアランド監督は現在L.A.在住のようですが、英国映画を思わせる美しい情景描写が印象的な作品です。
フランスの女性作家というと奔放な私生活。ジョルジュ・サンドから始まり、コレット、サガン、デュラスとそのイメージが連綿と受け継がれていきますが、仮に奔放さの格付けをすれば、おそらくコレットが真打でしょう。本作では、ブルゴーニュの田舎町サン・ソヴール(Saint-Sauveur-en-Puisaye)で生まれ育ったコレットが、14歳年上の人気作家アンリ・ゴーティエ=ヴィラール(Henri Gautier-Villars)、通称ウィリーに見初められ、パリに出てきてさまざまな面で開花していく様子が描かれます。
ウィリーはベル・エポックのパリ文壇を享楽的に渡り歩いた人で、才能ある書き手を見つけ、アドバイスを与えて出来あがってきた作品を自分名義の書籍にするという、出版プロデューサーのような仕事をしていた人のようです。その書き手たちの中には何人か後に文名を上げた作家もいたそうですが、その代表格がコレットで、幼少期からサンドなどを愛読していた彼女が書き留めていた学生時代の思い出話をリライトして「クロディーヌ」シリーズが刊行されることになります。
その処女作「学校のクローディーヌ」が出版されたのは1900年、コレットが27歳のときで、そのヒットに乗じて翌年に「パリのクローディーヌ」、さらにその翌々年に「去りゆくクローディーヌ」が出版され、大ブームを巻き起こすことになります。しかし、それらの作品はすべてウィリー名義で、文壇ではコレットが書いているという噂があったようですが、あくまでも彼女は裏方。当初は、金を生み出すための仕掛けとして受け入れていたものの、次第に不満が高まってきます。
こう書くと「メアリーの総て」や「天才作家の妻」と似た話だと思われるかも知れませんが、大きく異なるのはウィリーの立ち位置。彼はもともと新進の書き手を見つけて搾取することが仕事ですので、たまたま妻に才能があったから依存したわけではありませんし、コレットが事情を理解した上で書き続けた意味合いも違うでしょう。
ですから、彼らが離婚に至る理由として示されるのは版権管理の問題、つまりウィリーの仕事です。ジョージー・ラウール=デュヴァル(Georgie Raoul-Duval)と2人の関係や、マチルド・ド・モルニ(Mathilde de Morny)、通称ミッシーとコレットの関係など、婚姻そのものは早い段階から破綻しつつも協業体制が2人の関係を支えてきたわけですが、ウィリーが版権を手放したことで完全に決裂します。この微妙な関係性がわかりにくいので、中盤まではコレットの振る舞いにもどかしさを感じながら観ることになります。
またコレットの文学に対する情熱も複雑です。カントマイム/パントマイムのジョルジュ・ワゲ(Georges Wague)との関わりを見ていると、文学という形式の枠に収まりきれない表現への欲求を感じます。これについてもミッシーとの関係がクロスオーバーしますので、コレットの心情が若干わかりにくくなっています。
そういう意味で、この映画が描こうとするテーマは複雑かつ多様です。男性優位の社会での女性の自立もあれば、性差を超えた恋愛もあり、ベル・エポックの芸術、ブーム、ファッションから都市生活の憂鬱までさまざまな要素が盛り込まれています。110分の映画では、若干、駆け足になってしまうのも仕方ないかも知れません。
主人公のコレットを演じたのはキーラ・ナイトレイ(Keira Knightley)。彼女のファッションが素晴らしく、特に男装はこの映画の見どころの一つでしょう。またその恋人となるミッシー。出てきたときはエレン・デジェネレスのカメオ出演かと思いましたが、演じているのはデニス・ゴフ(Denise Gough)という舞台で活躍している女優さんだそうです。
夫のウィリー役は「パレードへようこそ」でゲシンの恋人ジョナサン・ブレークを演じていたドミニク・ウェスト(Dominic West)、デュヴァル夫人役はエレノア・トムリンソン(Eleanor Tomlinson)。ワゲを演じたディッキー・ボウ(Dickie Beau)は「ボヘミアン・ラプソディ」でラジオDJを演じていた人だそう。またコレットの母親役でフィオナ・ショウ(Fiona Shaw)も出ています。
[仕入れ担当]