先日、パナー・パナヒ監督の「君は行く先を知らない」を観たばかりですが、今回はその父親であるイランの巨匠ジャファル・パナヒ(Jafar Panahi)の最新作です。いわゆるモキュメンタリーのスタイルで撮られていて、トルコで撮影中のドキュメンタリー作品と、それをトルコ国境に近いイランの村からリモートで監督しているパナヒ監督の物語が重なり合って展開します。
トルコ国内で撮影中の作品は、バクティアールとザラというイラン人カップルが偽造パスポートを得てパリに出国しようとするお話。おそらくこの二人はイランから密入国した人たちで、映画の始まりは、カフェで働くザラのもとに、ようやく入手できた偽造パスポートをバクティアールが持ってくる場面。現場では、助監督レザがイランのパナヒ監督から指示を受けながら撮影を取り仕切っています。

一方、パナヒ監督は国境に近い東アーザルバーイジャーン州の小さな村ジャバン(Jaban, Dodangeh)に拠点を置き、村長の紹介で借りた部屋で暮らしながら、映画の指揮を執っています。冒頭の場面を撮影中、通信状況が悪くて途中で切れてしまい、屋根に上って電波を探そうとするパナヒ監督に声をかけたのが家主のガンバル。いつになくジャケットを着てめかし込んでいる理由を尋ねると、村の風習で新婚カップルの足を洗う儀式があると言います。

その儀式の模様を映像に収めて欲しいと、ガンバルにカメラを渡した監督は、電波を掴まえることを諦め、村の写真を撮りに出かけます。遊んでいる子どもの写真を撮ったり、村人が行き交う様子を撮ったりしますが、後々それが問題になってきます。

さてトルコ国内のカップルですが、ザラの偽造パスポートは入手できたものの、バクティアールの分は手に入らなかったようです。二人で幸せになるため拷問にも耐えてここまで来たのに、一人で出国するのでは意味がないとザラはパスポートを突き返します。バクティアールは、タイミングが重要だ、チャンスが巡ってきた者が先に出国してパリで待つべきだと説得しますが、ザラは怒ってカフェに戻ってしまいます。

ある晩、助監督のレザが国境を越えてパナヒ監督を訪ねてきます。言われるまま車を進めていくと、要件は、監督が不在ではキャストもスタッフも気持ちが入らないので、一時的にトルコに密入国して欲しいという依頼。荒廃した峠の向こうに見える小さな明かりを指差して、撮影隊が拠点にしている町だと言います。このまま秘密裏に出国し、映画を撮り終えたらまた密かに国境を越えて戻って来れば良い、そのために業者も手配しているとのこと。
しかし政府から出国を禁止されているパナヒ監督、リスクが大きすぎるということなのでしょう。彼の提案を拒否してジャバン村に戻ってしまいます。
その翌朝、国境の近くに行ってはいけないとガンバルから釘を刺されます。車の汚れは、このあたりの砂埃ではなく国境周辺の道のものだ、きれいに拭いておいたから今回は大丈夫だと思うが、監督が問題を起こせば自分も巻き込まれることになるので勘弁して欲しいということ。次第にわかってくることですが、この村は農業だけでは立ち行かなくなっていて、村人たちは密輸や密航で生計をたてているようです。目立つパナヒ監督が密航すればガンバルが捕まるわけです。

一方、トルコのバクティアールは偽造パスポートの入手に難儀しています。要するに家族から送金してもらった資金では足りないのです。それではザラも納得しないし、ドキュメンタリーも完成させられないということで、何とか難局を乗り越えようということになります。

パナヒ監督の部屋に村の若者ヤグーブとその叔父が訪ねてきます。叔父によると、この村では女の子が生まれると将来の夫の名のもとにへその緒を切る習慣があり、ゴザルは産まれたときからヤグーブと結婚する定めになっている、しかしテヘランの大学に通っていたソルドゥーズが帰ってきてゴザルと親密になっている、その証拠としてパナヒ監督が撮った写真、ゴザルとソルドゥーズが一緒に映っている写真が欲しいというのです。
パナヒ監督は、二人の写真を撮ったことはないと彼らを帰らせますが、夜中にソルドゥーズが訪ねてきて、自分はゴザルと愛し合っており、一週間以内に駆け落ちして村を出るので、それまで写真を渡さないで欲しいと頼まれます。

その翌日も村人たちがパナヒ監督の部屋の前で騒いでいます。先日、村内でパナヒ監督が写真を撮った少年を連れてきて、他に誰のことを撮っていたか少年に証言させるのです。それを聞いたパナヒ監督は撮った写真すべてを見せて、メモリーカードを村長に渡しますが、それでも村人たちの気持ちは収まらず、宣誓所に行って写真がないことを神に誓って欲しいと頼まれます。
宣誓所への道すがら、この道は“クマが出る”と村人から警告されます。村人はパナヒ監督をお茶に招き、真実を誓う必要はない、村に平和をもたらすウソは赦されると説いて送り出します。この一連の部分がタイトルの由来ですね。

パナヒ監督は宣誓に際し、コーランに手を置いて誓うのではなく、彼の宣誓を映像に撮って村人たちにコピーを渡すようにしたいと提案して、合意を得てから話し始めるのですが、この村のへその緒の風習が理解できないと発言したことでヤグーブが怒り出してしまいます。
独身だからということで自分は村人の代わりに服役し、村に貢献してきたのにいまだ結婚できていない、叔父たち親族は責任持って自分に嫁を与えるべきだ、というのです。女性の人権などまったく観点にない言いぐさですが、これがイランの田舎の現状なのでしょう。

テヘラン帰りのソルドゥーズは古くさい因習に縛られたジャバン村から逃げ出したいと思っていますし、ずっとジャバン村で暮らしてきたヤグーブは因習に頼らなければ結婚できないと思っています。パナヒ監督が撮っているドキュメンタリー映画の中ではイランから脱出した二人がパリに渡ることを夢見て苦労しています。それぞれ思いは違いますが、まともな仕事に着けず、まともな暮らしができないという点は同じで、パナヒ監督はそのような息苦しさを下敷きにしながらリアリティを追求していきます。

宣誓所の場面で、パナヒ監督は村人たちから“あなたは我々と同じトルコ語を話すと聞いた”と言われますが、それは彼が東アーザルバーイジャーン州のミアネ(Mianeh)出身だから。ジャバン村から300Kmほど南の町です。

実際、ジャバン村はトルコ国境と至近というわけではありませんし、トルコ国内のシーンはイスタンブール対岸のカドゥキョイ(Kadikoy)という遠方で撮られていますので、リモートで監督するなら通信環境の良いテヘランの方が好都合でしょう。この映画を東アーザルバーイジャーン州で撮ろうと考えたのは、土地の旧い因習に馴染みがあったからかも知れません。

映画はそれぞれの愛の行方を追っていくわけですが、エンディングで思わぬ急展開を見せます。まるでパナヒ監督が介入したことで、微妙なバランスが崩れてしまったかのようです。そういう危うさを抱えつつ小気味よいテンポで展開していくこの映画ですが、ところで“熊”というのは何の喩えだったのでしょうね。
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熊は、いない
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