リチャード・リンクレイター監督「ビフォア・ミッドナイト」、ヨルゴス・ランティモス監督「籠の中の乙女」などで助監督を務めていたというクリストス・ニク(Christos Nikou)監督。本作はどことなくランティモス監督「ロブスター」を思わせる不思議な世界観をもつドラマです。
主人公はバスの中で突然、記憶喪失に陥ってしまった中年男性。どうやらこの世界では記憶をなくしてしまう病が蔓延しているようで、彼が記憶喪失になる前の場面にも、自動車を路上に停めて呆然とへたりこむ男が出てきます。
映画は柱に頭を打ち付ける男を捉えた映像で始まりますが、彼がこの流行病で記憶をなくしたのか、頭を打ち付けて記憶をなくそうとしていたのかは最後まではっきりしません。いずれにしても家を出て花を買うあたりまで普通だったその男は、バスの終点で運転手に声をかけられた時点で記憶を失っており、自分の名前も素性も言えなくなっていました。

病院に送られた男は治療として、記憶を取り戻すのではなく、新しい自分を作りあげるプログラムに参加することになります。やるべきことは、毎日送られてくるカセットテープの指示に基づいて何らかのミッションをこなし、その証拠のポラロイド写真を撮ること。カセットテープとポラロイド写真という古くさい組み合わせが、映画全体の雰囲気作りに貢献します。

送られてくる指示は奇妙なものばかりで、自転車に乗ることだったり、ストリップクラブに行くことだったり、仮装パーティに参加することだったり、ホラー映画を観ることだったり……。映画館の前で証拠写真を撮ろうとしていて一人の女性と知り合うのですが、すぐに彼女も同じプログラムに参加していることがわかります。

彼女に誘われ、彼女の次のプログラム“郊外まで車を運転していって道沿いの大木に衝突させること”につきあうことになります。その道中、カーステレオから流れる“Sealed with a Kiss”の歌詞を口ずさむ男。何も覚えていないはずなのに、ふいに自分の住居の番地を口にしたり、知り合いの犬の名前を覚えていたり、彼の記憶喪失には奇妙な部分が目立ちます。
次第に彼女と打ち解け、その関係性の中に新しい自分を見出そうとしますが、彼女もプログラム参加者ですので、偶発的な出来事のように見えて、実はカセットテープの指示による行動ということも起こり得ます。それに気付いた男は、プログラムによって救われたいという当初の熱意を失い始め、物語は一気に終着点に向かいます。

冒頭で記したように、不思議な印象の映画です。シリアスなようで一つ一つのエピソードはユーモラス。登場人物は一様に真面目な風情ですが、それぞれの行動はまったく真剣に見えません。記憶喪失になる流行病という近未来的な設定の割に使われている音楽はナツメロ風ですし、全般としてつかみ所のない感じです。

おそらくテーマは、忘れたい記憶だけ消せないのか、ということでしょう。男は毎日食べていた好物のリンゴが記憶保持に良いと聞いた途端、リンゴを買うのをやめて袋一杯のオレンジを抱えて帰ります。記憶の問題を抱えているにも関わらず、記憶に対する執着をまったく示さないのです。

主人公を演じたアリス・セルベタリス(Aris Servetalis)は元々ダンサーだったそうで、もの静かな面持ちとノリの良いダンスで演技に緩急をつけます。その相手役のソフィア・ゲオルゴバシリ(Sofia Georgovassili)、プログラムマネージャー役のアナ・カレジドゥ(Anna Kalaitzidou)など、みなギリシャ国内で活躍している俳優だそうです。

これが長編デビュー作というクリストス・ニク監督。本作が気に入って製作総指揮に加わったというケイト・ブランシェットが、次作「Fingernails」のプロデューサを務め、キャリー・マリガンの主演が予定されているそうです。指の爪という、これまたつかみ所のないタイトルで、一体どんな物語を紡いでいくのか、ちょっと楽しみになります。
公式サイト
林檎とポラロイド
[仕入れ担当]