ハンガリー映画というと、このブログでは「悪童日記」と「サウルの息子」ぐらいしか取り上げていませんが、高レベルの作品を輩出しているようで、前者は米国アカデミー賞外国語映画賞の最終選考に残り、後者は見事、同賞を受賞しています。本作は「悪童日記」と同じく、最終選考に残りながら惜しくも選にもれた作品で、両者より少し後の時代、終戦後の1948年からスターリンが死去した1953年までの混乱した時代を背景に物語が展開します。
スロバキアの南に位置し、ルーマニアとオーストリアに挟まれた小国であるハンガリーの20世紀は、周辺国との領土争い、主権争いに明け暮れた時代だったわけですが、第二次大戦中は枢軸国として参戦したことでナチス・ドイツの影響を受け、戦後はソ連の占領下におかれるという苦難の歴史を歩むことになります。
主人公である16歳の少女クララと42歳の医師アルドは、共にホロコーストで家族を失ったユダヤ人。原題は“残された者”という意味のハンガリー語だそうで、それに合わせて“Those Who Remained”という英題が付けられていますが、生き延びた者同士の連帯を描いていく物語です。

クララは、詳しい事情は描かれませんが、孤児院にいたところを叔母のオルギに発見され、引き取られたようです。初潮が遅れているということで、オルギに連れられて受診した婦人科医がアルド。オルギとのつつましい暮らしに飽きていたのか、クララはアルドに惹かれていきます。

積極的にアルゴにアプローチするクララを、どうなるものかと見ていると、オルギはあっさりクララをアルドに預けてしまいます。彼女いわく“教養のない私より、アルドと一緒にいた方がクララのためになる”とのこと。独り身の中年男性と16歳の少女が同居するという不思議な展開ですが、当地ではホロコーストの生き残りが、同胞の遺族を養子養女として迎えることが普通に行われていたそうです。その結果、クララは週の半分をオルギの家、残りをアルドの家といった具合に、二つの生活拠点を得ることになります。

映画の早い段階で、アルドの腕に刻まれた囚人番号のタトゥーが映り、彼が収容所にいたことがわかりますが、家族に関する話は後半になるまで明かされません。しかし彼が漂わす虚無的な風情や、ユダヤ人会の孤児院に通う日常などから、何らかの暗い過去を抱えていることは伝わってきます。クララのアルドに対するさまざまな感情のうち、おそらくそういった孤独な表情に何らかの共通するものを感じたのでしょう。

映画を観に行ったり、アルドが勉強を手伝ったりして、父と娘のようであり、親しい友人のようでもある新たな関係を築いていく二人。そんなある日、クララは二人が公園で寛いでいるところを見かけた党員の教師ヴィダークからアルドとの関係について詰問されます。

スターリニズムの嵐が吹き荒れたこの時代。ハンガリーでは共産党が社会民主党と合併して勤労者党となり、一党独裁制のもと恐怖政治を敷いていました。アルドの旧知の友人である小児科医ピシュタは、二人の養女を迎えているユダヤ系の同胞ですが、自身と家族の安全のために入党したことを告白します。そして党からアルドを監視するように命じられたことを明かします。

思春期を迎えたクララの気持ちも不安定です。さまざまなリスクを危惧したアルドは、この心地よい関係を変えていこうと決心するのですが、果たして二人の気持ちはうまく収まっていくのか、というのが概ねの粗筋です。
この映画の見どころは、何よりもクララを演じたアビゲール・セーケ(Abigél Szõke)の瞳でしょう。非常に会話の少ない作品である故に、苦悩と憤怒をたたえた表情だけで、ホロコーストの生き残りの悲しみと、生き抜こうという強い意志を巧みに表現していきます。

そしてアルドを演じたカーロイ・ハイデュク(Károly Hajduk)。孤独な中年男性の悲哀と諦念がリアルです。ハンガリーを代表する実力派俳優だそうで、3年前に出演した作品では連続殺人犯を演じ、デビューしたてのアビゲール・セーケは被害者役の一人だったとのこと。

オルギ役のマリ・ナジ(Mari Nagy)は40年近いキャリアをもつベテランだそう。この3人の絶妙なバランスがあって、詳しい説明もなく、淡い感情の積み重ねだけで描かれるこの映画をうまく着地させているのだと思います。

原作は精神科医のジュジャ・F・ヴァールコニ(Zsuzsa F. Várkonyi)が書いた小説で、アルドとクララの関係は映画とやや違ったものだそうですが、監督のバルナバーシュ・トート(Barnabás Tóth)が映画としての完成度を鑑みて変更したそうです。
公式サイト
この世界に残されて(Those Who Remained)
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