3年前の「裁かれるは善人のみ」ではロシアの辺境を舞台に政治と宗教の歪んだ関係を描いてみせたアンドレイ・ズビャギンツェフ(Andrey Zvyagintsev)監督。今回はモスクワ郊外の街を舞台に、愛情が希薄化し、他者への関心を失った現代的な家族の姿を描いていきます。
映画の幕開けは小学校のファサード。ちょうど下校時間になり、子どもたちが次々と飛び出してきます。カメラはその1人を捉え、対岸に高層住宅が建ち並ぶ川岸を歩いて行く少年を追います。工事現場で使う危険表示用テープでしょうか。木の根もとに落ちていた赤白テープを木の枝に放ったりしながら、川面をたゆたう鴨の家族を横目に自宅に向かいます。
この少年こそ物語の軸となるアレクセイですが、登場場面はあまり多くありません。離婚協議中の両親が彼の養育を巡って激しく口論する姿を見た後、忽然と姿を消してしまうのです。
なぜ口論になるかといえば、両親それぞれに次のパートナーがいて、新たな生活をスタートさせたいと願っているから。
父親ボリスの相手は若い女性で現在妊娠中、母親ジェーニャの相手は既に子どもが手離れして悠々自適の生活を送っています。どちらの暮らしにもアレクセイの居場所はありません。
ちょっとネタバレになっていましますが、アレクセイの失踪は必ずしも家出とは限りません。自分が邪魔になっていると知り号泣するシーンが描かれますので、観客の多くは彼が家出したと思って観るでしょう。しかし終映後に反芻してみると、少年の意志どころか、両親が家出と思っていたかすら明かされず、最後まで曖昧だったことに気付きます。
両親は、彼らが養育義務を押し付け合っていることを、アレクセイが知らないと思っている可能性もありますし、それどころか、アレクセイが両親の離婚をどう受け止めているか、まったく気にしていないようにも見えます。それぐらい関心が薄いのです。
アレクセイの失踪後、ジェーニャが警察に届けますが、警察はアレクセイの部屋を確かめて簡単な調書を作っただけで動こうとしません。警察は忙しいので、自力で捜索するか、NPOに頼めというのです。「裁かれるは善人のみ」でも描かれていた行政への不信感、本作の基盤となっている関心の低さの顕れでしょう。
警察とは対照的にNPOの捜索活動は熱のこもったものです。住宅地を取り囲む森をくまなく調べ、ジェーニャの母親が匿っているかも知れないと、実家までついてきて家捜しします。
その過程でジェーニャと母親の関係、ジェーニャとボリスの結婚に対する母親の立ち位置が見えてきて、ジェーニャが新たな相手に求めるもの、ボリスの懲りない性格などが明らかになっていきます。
エンディングは、ウクライナ紛争を伝えるTV放送を横目に小雪舞うベランダに出て、トレッドミルで走り込むジェーニャの姿。その無表情な顔も印象的ですが、彼女が着ているジャージも強烈です。
監督いわく、この物語はロシア人が政治改革に期待した2012年10月に始まり、それに失望した2015年で終わるように作ったとのこと。家族に対する無関心と他国や他民族に対する無関心が同列が描かれ、それぞれで悲惨な状況に置かれる子どもたちに意識が向かいます。
どちらも次の相手を愛していると言いながら、その相手といるときも常にスマホを手放さず、生身のコミュニケーションは一方的かつ刹那的。もはや誰に対しても関心を持ち続けることは難しいのかも知れません。寒々しいモスクワの風景より、さらに冷え冷えとした心象風景を感じさせる作品です。エンドロールの協力者一覧にinstagramという文字を見つけました。
[仕入れ担当]