カトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)とカトリーヌ・フロ(Catherine Frot)の競演が見どころのフランス映画です。監督は「セラフィーヌの庭」のセザール賞で注目を浴びたマルタン・プロヴォ(Martin Provost)。ずっと女性を主人公にした映画を撮ってきた監督です。
原題は助産婦という意味で、カトリーヌ・フロ演じる真面目な助産婦クレールと、カトリーヌ・ドヌーヴ演じる享楽的なベアトリスという正反対の二人の交流を描いていきます。
ちなみにルージュの手紙という邦題の意味はエンディングでわかります。原題を直訳しただけでは集客が難しそうですので、映画の終盤で描かれる印象的なシーンにフォーカスしたのでしょう。
ついでに記すと、この映画が捧げられているイヴィンヌという人は、プロヴォ監督が生まれたときの助産婦 Yvonne André のことだそう。映画の中盤、かなり唐突な感じで新生児に献血した助産婦のエピソードが出てきますが、これは自分の出生時の実話だとフランス助産婦評議会のインタビュー(こちら)で語っています。
物語の発端は、忙しく働く助産婦クレールの自宅の留守電に入っていたベアトリスからのメッセージ。ベアトリスというのはクレールの父の愛人だった女性で、クレールの幼少時に一緒に暮らした時期もあったようです。
しかし、彼女は何の前触れもなく姿を消し、クレールの父は悲観して自殺してしまいます。それ以来、音沙汰のなかったベアトリスが急に連絡してきて、話したいことがあるというのです。
普通だったら無視しそうなところですが、クレールはパリ郊外の自宅からジョルジュサンクまで出向いてベアトリスと会います。良くも悪くも実直な性格なのです。
連絡してきた理由をベアトリスに問うと、脳腫瘍で余命宣告されたから、もう一度会っておきたいと思ったからと答えます。そしてクレールの父の最期を聞いて涙します。感情を抑え込むタイプのクレールとは正反対の直情的な性格なのです。
クレールの父は、妻、つまりクレールの実母を捨ててベアトリスの元に走ったわけですが、おそらくその理由はベアトリスの享楽的な性格が妻より魅力的に映ったからでしょう。クレールは母の血を受け継いだ質実剛健な人ですから、酒呑みでギャンブル狂い、病気だというのに不健康な食べ物が大好きなベアトリスのライフスタイルに冷たい視線を向けます。しかし、死にゆく運命に対する同情と昔の思い出があり、彼女を無碍に切り捨てることもできません。
こうして血の繋がらない母娘の交流が再び始まります。
死期が迫ったベアトリスと、命が生まれる場で働くクレール。都会が好きでタクシーで移動したがるベアトリスと、郊外の公営住宅から職場の病院に自転車で通うクレール。借金を背負いながらも金無垢の腕時計など豪奢な装いをやめられないベアトリスと、いつもつつましい装いで地味に暮らしているクレール。カフェやビストロに通うベアトリスと、借りた農園で無農薬の野菜作りに勤しむクレール。
まったく逆の価値観を持つ二人ですが、触れ合ううちにそれぞれが影響を与え合います。
物語の筋からいえば主役はカトリーヌ・フロでしょうが、どうしてもカトリーヌ・ドヌーヴの存在感が際立ってしまいます。おカネがなくて借金取りに追われているはずなのに常にゴージャス。どんなワガママを言ってもそれを当然のように感じさせてしまう説得力。さすがとしか言いようがありません。
概ねこの2人で展開していくのですが、クレールを取り巻く2人の男性も重要です。その1人は息子のシモン。彼はクレールの父親と瓜二つで、これがちょっと面白い効果を生み出します。演じているのはカンタン・ドルメール(Quentin Dolmaire)。
そしてもう1人はクレールが借りている農園のお隣さんであるポール。
オリヴィエ・グルメ(Olivier Gourmet)が演じているのですが、かっこいいとは言えない風貌ながら、クレールが惹かれていってしまう佇まいに説得力があります。
フランス映画らしい、こじんまりした作品です。他愛ないと言われれば、その通りかも知れませんが、ある程度の年齢になっていれば共感できる部分が多々あると思います。意外に混んでいますので、レディスデーを外して行った方が良いかも知れません。
公式サイト
ルージュの手紙(The Midwife)
[仕入れ担当]