映画「ジミー、野を駆ける伝説(Jimmy's Hall)」

Jimmy0 ケン・ローチ(Ken Loach)監督が「麦の穂をゆらす風」から8年の時を経て、再びアイルランドの内戦を扱った作品です。

「麦の穂……」が内戦によって敵対する兄弟を描くことで戦争の非情さと無意味さを描いたのに対し、本作は直接内戦を扱うのではなく、その後の赤狩り(反共主義を背景にした一種の魔女狩り)によって国を追われることになる一人のコミュニスト、ジミー・グラルトン(Jimmy Gralton)にフォーカスし、権力の醜悪さを静かに暴いていきます。

ケン・ローチ監督は左翼的な人物ですから、当然、ジミーを善玉として描いていくのですが、彼と対峙することになるカトリック教会にも寛容なところが本作の特徴かも知れません。一見、政治的ながら、本質的には「エリックを探して」や「天使の分け前」と同じく、市井の人々を勇気づけることに重点を置いた映画のように感じました。

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物語は、内戦後に米国に渡り、ニューヨークで暮らしていたジミーが、大恐慌の後の1933年に故郷のリートリム(County Leitrim)に戻って来るところから始まります。帰国の目的は、弟が亡くなり、誰も近くにいなくなった老母の世話。静かに暮らしたいと語るジミーですが、教会や地主など地域の権力者たちは元活動家の帰還に警戒します。

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その理由は、以前、ジミーが自前で建てて、地域住民たちが集っていたホール(Pearse-Connolly Hall)。

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人々がイェイツの詩を読み、ダンスを楽しみ、ボクシングで身体を鍛えるコミュニティセンターのような場所ですが、独立運動指導者のパトリック・ピアースとジェームズ・コノリーに因んだ名称の通り、労働者の自立を強く意識したもの。教会が主催するダンスイベントではなく、ジミーの元に集まる人々が、共産主義的思想で団結することを恐れたのです。

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当初、ホールの復活を考えていなかったジミーですが、路上に集まっていた若者たちの熱意に押され、廃屋状態になっていた建物を昔なじみの人々の協力で再建します。

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そして10年前のように、ホールに賑わいが帰ってきます。

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それを見て、圧力をかけ始める権力者たち。ジミーはシェリダン神父にホール運営への参加を依頼し、協調路線を歩もうとしますが、神父はホールの全権を委ねない限り協力できないと突っぱねます。ますます対立が深まっていくわけです。

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教会に集まった住民たちに、シェリダン神父が「キリストかグラルトンか?(Is it Christ or is it Gralton?)」と問いかける場面が印象的です。最近のニュースでも似たような二元論を目にしましたが、おそらく監督が伝えたかったことの一つがここにあります。自らの保身のため、人々を意図通りに動かそうと二者択一を迫る指導者。こういった愚かしい問いかけをする輩には用心しなくてはいけませんね。

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もう一つの印象的な言葉が、ジミーがシェリダン神父に告げる「愛より憎しみの方が多い(Having more hate in your heart than love)」。愛をもって人々を導くことが本筋なのに、憎しみが原動力になっていると、神父を非難する言葉です。これがシェリダン神父の心に響いたところを描くあたりにケン・ローチ監督の愛を感じます。

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また、シーマスという若い神父も登場するのですが、彼が一貫してリベラルなことも重要です。教会の権威を守ろうと腐心する点ではシェリダン神父と同じでも、そのために汚い手段を使う官憲に対し「それではK.K.K.と同じだ(These are the tactics of the Ku Klux Klan)」と吐き捨てるシーマス神父。時流にあったやり方で人々の心を掴むべきだと考えている聖職者です。

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ここがこの映画の深いところでしょう。シェリダン神父とジミー・グラルトンの新旧対立だけでなく、保守でありながら新しい価値観を持つシーマス神父を登場させることで、映画そのものからも安易な二元論を排除しています。

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そして、このシーマス神父や労働者の若者たちに未来を託すことで希望をにじませ、鑑賞後にすがすがしささえ感じさせてくれる作品に仕上げています。

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公式サイト
ジミー、野を駆ける伝説Jimmy’s Hall

[仕入れ担当]