こんなときにロシア映画というのもどうかと思いましたが、とても評判が良いので観に行ってきました。 監督は今年8月で85歳になるというアンドレイ・コンチャロフスキー (Andrei Konchalovsky)。ロシアの名匠と言われているそうですが、弟のニキータ・ミハルコフの作品は何度か見ているものの、私はこの監督の作品は初めてです。
モノクロ映像で画角もスタンダードサイズですので昔の映画のようですが、2020年9月のヴェニス映画祭で初公開された新作で、同年の東京国際映画祭でも上映されています。今から3〜4年前にロシア文化省から支援を受け、ロシア国内でこのような映画が撮られたことに驚きました。ちなみに当時の文化大臣はウラジーミル・メジンスキー(Vladimir Medinsky)で、その後、大統領補佐官となり、2月28日のホメリでの停戦交渉ではロシア側の代表団長を務めています。

映画の内容はといえば、1962年6月にノボチェルカッスクで起きた労働者の暴動を背景に、職業倫理と家族愛の狭間で葛藤する一人の女性を描いていくというもの。主演は監督の妻でもあるユリア・ヴィソツカヤ(Yulia Visotskaya)で、1973年8月生まれといいますので36歳差ですね。コンチャロフスキー監督5度目の結婚だそうです。ロシア版ポランスキーといったところでしょうか。

この物語の下地になっているノボチェルカッスクの虐殺というのは、電気機関車工場(NEBF)でのストライキを発端に、食糧不足で不満が溜まっていた市民の怒りが爆発して暴動へと拡大した事件。ソ連軍がデモ隊に発砲したことで多数の死傷者を出しながら、一切報道されず、1992年まで秘密にされていたそうです。

この時代、スターリンが亡くなり、ニキータ・フルシチョフの政権に変わっていましたが、同胞に銃を向けることを厭わず、その事実を隠蔽し続けるあたりはまさにソビエト、まさに共産党という感じですね。ソビエト連邦崩壊後の1992年に軍事検察庁が調査しましたが、当事者のほとんどが死亡しており、責任の追求は行われなかったそうです。

またこの事件がノボチェルカッスクというロシア南部の都市で起こったこともひとつのポイントです。映画の中でも触れられますが、当地はかつてドン・コサックの本拠地だった場所。ロシア内戦時に共産党(赤軍)と戦って敗北したため、その後、過酷な弾圧に苦しめられることになります。1930年代のホロドモール(国家的な人為的飢饉)でもウクライナ・コサック、クバーニ・コサックと並んでドン・コサックから大勢の餓死者を出しており、その恨みからか第二次大戦中、コサックの残党はドイツ側についてソ連軍と戦ったといいます。
そんな因縁ある都市で、どういう経緯か主人公のリューダは共産党員であるばかりか、市政委員会の一員という特権的な地位についています。なぜ、どういう経緯か、と記したかというと、彼女の父親はドン・コサックの生き残りで共産党を毛嫌いしているから。
リューダの一人娘スヴェッカも、祖父とはちょっと違いますが、労働者の権利という観点から政府に批判的です。といっても、これはフルシチョフが進める民主化に繋がる考えかも知れませんので、必ずしも反政府かどうかわかりません。

リューダはシングルマザーなのですが、スヴェッカの父親とは不倫関係だったようで、その上、現在も直属の上司と不倫中という、あまり道徳的とはいえない暮らしぶりです。食糧不足で市民が押し寄せる商店に裏口から入れて貰い、ミルクやケーフィル(サワーミルクの一種)の他、煙草やリキュールまで手に入れてしまう倫理観のなさも、ソビエト共産党らしいとはいえ、褒められたものではないでしょう。

そんな彼女ですが、共産党や市政に対する信頼と忠誠心は高く、NEBFで労働争議が起こった際、煽動者は逮捕すべきだと党中央の幹部の前で意見する強硬派です。それに対して娘のスヴェッカは工場労働者の一員として抗議活動に加わろうとしてます。もちろんリューダは娘を叱りますが、気の強さは母親譲りのようで、デモに参加してしまいます。

そしてデモ隊に向けて軍が発砲し、大混乱になります。映画では鎮圧のためにKGBの狙撃手が投入されたことになっていますが、これが史実かどうかはわかりません。もしかすると、軍の擁護など何らかの意図があって事実をねじ曲げたかも知れないあたりがロシア映画の微妙なところですね。
リューダは地位を活かして病院などを探し回りますが、娘の行方はわかりません。そんな中、KGB捜査官のヴィクトルが訪ねてきて、スヴェッカの行動を尋ねると共にパスポートを持ち去ってしまいます。どうやら暴動の煽動者ではないかと疑われているようです。となると、狙撃手のターゲットだったかも知れず、射殺されている可能性も高まります。

そうこうするうちに死者の一部が秘密裏に埋葬されたという情報を掴み、情報隠蔽のため厳格に封鎖されている町から出ようと四苦八苦するのですが、その後の展開は観てのお楽しみとする方が良いでしょう。歴史上の事件をただ俎上に上げるだけでなく、劇映画らしい起承転結が楽しめます。

後半で非常に気になるのが、絶望したリューダが口にする“スターリンが恋しい”という言葉。食糧不足や賃下げなどが起こるのは革命が完遂していないからであり、スターリンがいなければ革命は不可能だという、一種のフルシチョフ批判です。

ご存じのようにフルシチョフはスターリンへの個人崇拝や彼の専横政治を批判する、いわゆるスターリン批判を行った人物。非スターリン化で経済・貨幣改革を推し進め、豊かな共産主義を目指すというフルシチョフの考えは、今にしてみれば当然に思えますし、欧米の資本主義諸国との関係改善や日ソ共同宣言といった外交面での功績もあったわけですが、もちろん反対派がいるわけです。

リューダはスターリンを崇拝している側で、彼が生きていれば共産主義革命がうまくいき、民衆の暴動など起こらない安定した世の中になると本気で信じているようです。つまり、後に“ノボチェルカッスクの虐殺”と呼ばれることになる市民への発砲は、フルシチョフの失政が引き起こした悲劇だと考えているのです。

そこで冒頭に記した、なぜこの映画がロシア文化省から支援を受けられたのか、という問いを思い出すわけですが、本作はソ連の闇を暴露するのではなく、フルシチョフの間違いを指摘して、スターリンの政治こそ本来の在り方だとする立場なのではないでしょうか。それならば、スターリンを崇拝する現大統領の側近であるメジンスキーが映画への支援を許可したこととも辻褄が合います。

フルシチョフはウクライナ融和策の一環としてクリミア半島の移管(返還)を行った人物でもあります。6年前の「あの日の声を探して」のブログでも司馬遼太郎を引き合いに出して同じことを書きましたが、やはりロシアはどこまで行って変わらないものだと改めて思いました。
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